masato yoshida & tomoko ito updated 2020-08-28

オブジェの言葉

コッペリウス性生命維持装置
吉田正人の場合

 ホフマンの幻想小説をもとにしたバレエ『コッペリア』は、街に住む奇っ怪なコッペリウス博士と名乗る老人が、夜な夜な若者たちをたぶらかし、その臓器頬を摘出しては、彼にとっての理想の女性コッペリアという人造人間を造っている。コッペリアが完成ま近という日、街のお転婆娘スワニルダがコッペリウス博士の館に忍び込み、コッペリアとすり変わって踊り出してしまうので、博士はすっかり仰天してしまうというストーリーだ。

 人形、人造人間、あるいはロボット、いずれにしても“ヒトガタ”を造る人の心の中には、さまざまなレベルでの人間に対する失望と、限りなく人間に近い存在(モノ)に対する期待が未分化に混在している。私はそれを“コッペリウス性”と呼んでいるのだが、吉田正人のアティチュードにもそれを感じる。吉田の“ヒトガタ”は、もとよりコッペリウス博士の時代では想像だに出来ないハイパーな装いをしているが、であるのに関わらず、それらは単純な動作を繰り返すか、さもなくばじっとしているだけだ。まるで何でも出来てしまいそうなコンピュータリゼーションのロボットも、無能な物体(オヴジェ)になってしまう。これはあるいは狡猾で傲慢な意思を持った人間であふれた社会に対する厭世観のようなものだろうか。

 決して自分を裏切ることのない物体(オヴジェ)への希求が、創作活動の核になってるようにも見える。音の出るサウンド・オヴジェもそうだ。ノイズにあふれた現実世界から、選択純化した音だけを奏でることの出来る発音装置として現われる。しかもそれは箱庭大の楽園のように見えたり、天使のように透明な者たちだけが操れるような楽器の姿をしている。
 一見楽しそうなこれらオヴジェ群は、吉田正人にとってこの厭世に生き延びていくための、奇妙な生命維持装置なのではないだろうか。そのことによってこれらの物体は、オヴジェの概念を超越する。

榎本了壱(イベント・プロデューサー)
(1991年7月・展覧会パンフレットより)

エスクリトール・エスクリトール・サウンドオブジェ

Male & Female 2

A Device Maintain a Coppelian Nature
by Masato Yoshida

In "Coppelia", the ballet based on Ernst Hoffmann's fantasy novel, an old man claiming to be the strange Dr.Coppelius prowls the streets at night and bewitches a town's unsuspecting youth. After murdering them for their organs, the mad doctor sets about to create the ideal woman which he names Coppelia. But just before the creation is finished, Swanilda, the town's tomboy, switches places with Coppelia and astonishes the doctor by dancing.

In the heart of a person who creates a human replica or robot --- what we call "hitogata" in Japanese --- exists a struggle between the maker's expectations of an ideal being and his disgust with the fallibility of humanity. This I call "Coppellian Nature", and I also find the same nature in Yoshida's point of view. His hitogata are stark and undressed. They can perform simple movements, or simply do nothing. But even computerized robots, which can be programmed to do a variety of things, remain incompetent objects when their power supply is terminated. With Yoshida's robots, however, we feel his contempt for a society full of deceit and arrogance. In this sense, his creativity is born out of a desire to produce an object which never betrays itself.

We live in a world flooded with sounds that are only heard on the surface. Only sensitive people can hear the sounds crying out from objects which appear quiet on the outside. And so we hear the voices of Yoshida's hitogata, releasing a Symphony of complex emotions. The robots, like human beings appear to be having fun. For how else could they survive in this world of hate? By bringing us closer to the complex emotions in daily living that we all carry, Yoshida's creations are more than just objects. They are a part of us all.

Ryoichi Enomoto (Producer)
(※2010年4月1日・英語訳を一部加筆修正いたしました。)


吉田正人 と いとうともこ
に関心がある方々に

 吉田正人と いとうともこ の制作するオブジェを、表面的に見て作品を理解しようとすると、大変な思い違いをしてしまう。彼らの作り出す世界は、人間性豊かで、そしてそれらは、美しい機械の中に具体的に表明されている。
 彼らは、100のロボットを作る計画をしている。100のロボットは、誰もがいくつかは同じように持っている感情、情緒を、人間の持つ無限の気持ち、感覚を表そうとしている。彼らの作品からは純粋で繊細な光が放たれている。
 将来、機械ばかりになり、人間が機械にコントロールされてしまうのではないかと心配したり、シニカルになっている人々に、彼らは、違う希望のある世界を見せている。それは、冷たくなく、親切で優しく、とても人間的で思いやりにあふれ、作品を見ている人を暗いイメージにさせず、気持ちをマイナスではなく、プラスの方へ向かわせる。ただの機械のメカニックを作ることではなく、未来のロボットの心の中に、彼らは、はるか遠くを見ている。
 独創的な考え方、美意識であるという理由で私は、彼らの作品が援助を受けるべきだと推薦します。

キャサリン・フィンドレイ(建築家)
(1996年10月11日)

Ji-danda(地団駄代行オブジェ)

TO WHOM IT MAY CONCERN
MASATO YOSHIDA AND TOMOKO ITO

It would be a great mistake to understand the work of Masato Yoshida and Tomoko Ito by only looking at the objects they make. Their's is a world of rich humanity and embodied in those beautiful machines. They plan to make 100 robots which have the same number of feelings displaying the infinite senses of man. Something shines from their work which is pure and delicate and should be an inspiration to those who would be cynical about the future of man in the hands of machines, it is not cool but kind, not inhuman but altruistic:thy see way beyond pure mechanics into the heart of future robots. I recommend that their work receive support because it is original in the best sense.

Kathryn Findlay (Architect)


推薦する作家:田正人+いとうともこ

 90年代、現代美術は混沌と拡張のただなかにありますが、そのなかでメッセージ性のある作品、私達に刺激を与え新鮮な発見をさせる作品は、これからの世紀にも重要であることは疑う余地がありません。吉田正人+いとう ともこ氏の作品は、美しく研磨した金属素材を用いてテクノロジーを駆使した機械(明らかに人型ロボットのような形態のものも多い)でありながら、私達が「機械」という言葉から連想する「合理性」や「非人間性」とは対極にある表現が絶妙です。「Ji-danda」「Jita-bata」といった、人間らしい仕草(地団駄を踏む動作、じたばたする動作)をする作品が、改めて人間という存在について考えさせる点に注目すべきでしょう。ロボットのようなものを見ると、私達はなんでもできる機械を期待しますが、吉田正人十いとう ともこ氏の作品はどちらかと言えば1つ、2つの動作に限定されていて、それがかえってユーモアを生み出し、私達の想像力を膨らませるものになっているのです。
 色々な物語が生まれてきそうな作品を作り続ける吉田正人+いとう ともこ氏を私は推薦致します。

堀口勝信(原美術館 学芸員)
(1996年10月11日/※肩書きと所属は執筆当時のものです。)

Doki-doki 1

「吉田正人+いとうともこ」さんの作品に寄せて

 1994年の秋、吉田正人さんといとう・ともこさんに初めて会ったとき、この騒々しくせわしない世の中で、お二人の座る一角だけがしんと静まりかえって、清浄な空気が流れる場所のように感じられ、不思議な印象を抱いた。それは、たとえて言えば、高原の朝に身をおいたときの感覚が、都会の日常性の中にぽんと移ってきたような、とでも言えようか。ところが、その二人が作り上げる作品は、機械の部品を自由に組み合わせた、動きや音をともなうロボットのごときものである。彼らの作品は、これまでに「日本オブジェ展」や「機械帝国展」に出品されて、現代のテクノロジーとアートとの関係を示すシンボルとしてふさわしい扱いを受けている。機械やテクノロジーにいわれないアレルギー体質をもつ私が、彼らの作品に対して好意的になれないとしても不思議ではないのに、まず二人の存在がかもし出す温かな静けさとメカニックな作品との落差に驚き、それから初めて、作品の生み出す緩慢で人間的な動きのリズムに気づく。そのリズムは、ある時はぎくしゃくとして機械的な整然さからはど遠く、ある時は人間の心臓の鼓動をなぞっていたりする。その動きを眺めていていつまでも飽きないのは、流れる雲や舞い落ちる葉を見ているとき、海辺で波のリズムと音を体感しながら飽きることがないとの、通じているのだろうか。彼らの作品を前にしてポエジー(詩情)を感じるのは、私だけではないかもしれない。
 機械のパーツとて、もともと人間の手から生まれたものであることを思い至らせてくれる彼らの作品は、人間とテクノロジーの関係の在り方がこれからどうあるべきなのか、ひとつの視座を与えてくれるような気がする。

猿渡紀代子(横浜美術館 学芸員)
(1996年11月4日/※肩書きと所属は執筆当時のものです)

宣伝会議(今月の表紙より)

 吉田正人+いとうともこさんの創り出すハンサムなロボットは魅力的だ。
 コンピューターグラフィックスはバーチャルな空間の中にあるが、 このハンサムなロボットは触ることもできるし、音や光も具体的に出してくれる機械文明の中でうごめいているが、その中からすべてがていねいに抽出されたカタチを面構築してゆく作業にはカオスを感じることができる。
 ぼくは、アートディレクターのご本尊派は千手観音だと思っているので、京都へ行くたびに、密かに祈りを捧げている。あの位手があって全部が動いてくれたら凄いことになるなあと思う。人間の想像を絶するような機械よりも、アートの分野では、原初的なかすかな動きの方が感動を呼ぶ。最近は、あまり見かけなくなったがブリキのおもちゃなどはその一例だ。そうか、北原照久さんのブリキのおもちゃは博物館入りしちゃったんだなあ。僕の机の上には、アフリカのケニアから買ってきた、単純なおもちゃが乗っている。
 すごく気に入っている。ふたの部分にカエルがついていて、それを引くと中から蛇が顔を出す。このばかばかしい程、単純な動きがたまらなく好きなのだ。
 二人が創り出す精密なロボットもますます人間的になってほしいと思っている。

浅葉克己(アートディレクター)
※宣伝会議1996年12月号

Doki-doki 1